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ズワルテンダイクと杉原千畝が救ったユダヤ人:2千345枚のキュラソービザと命のビザの歴史と意義

第二次世界大戦中にユダヤ人難民を救ったオランダの外交官ヤン・ズワルテンダイクと日本の外交官杉原千畝について紹介します。彼らは、オランダ領西インドへの入国許可書(キュラソービザ)と日本への通過査証(命のビザ)という二つの特別な文書を発給して、約2,140人のユダヤ人をナチスの迫害から逃れさせました。

この歴史的な出来事は、日蘭の絆を深めるとともに、多くの人々に感動と教訓を与えています。

ヤン・ズワルテンダイク

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キュラソービザとは

第二次世界大戦中、ナチスドイツから迫害を受けていたユダヤ人難民は、ヨーロッパから脱出するためには、最終目的地の国への入国ビザが必要でした。しかし、当時のヨーロッパでは、ユダヤ人に対して入国ビザの発給を拒否する国がほとんどでした。

そんな中、オランダの外交官ヤン・ズワルテンダイクは、南米のオランダ領キュラソー島への見せかけの「目的地ビザ」を発行しました。このビザは、ユダヤ人難民が日本を経由して他国に逃れるための重要な手段となりました。

キュラソービザとは キュラソービザとは、第二次世界大戦中にオランダの名誉領事であったヤン・ズワルテンダイクが記載したパスポートへのメモであり、オランダ領西インドにあるキュラソー島への正式な入国査証ではありませんでした。

キュラソービザの画像

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このビザは、ナチスに迫害されていたユダヤ人難民にとって、日本を経由して他国に逃れるための重要な手段でした。ズワルテンダイクは、1940年7月から8月にかけて、約2,140枚 のキュラソービザを発給しました。

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キュラソービザを持っていたユダヤ人は、日本の外交官杉原千畝から「命のビザ」と呼ばれる「通過ビザ」を受け取ることができました。杉原千畝は、キュラソービザが正式なビザではないことを知らずに 、ユダヤ人が第三国へ移住することを信じて通過査証を発給しました。このようにして、約2,345人のユダヤ人がナチスの迫害から逃れることができました。

なぜズワルテンダイクはキュラソービザを発行できたのか?

では、なぜズワルテンダイクはキュラソービザを発行することができたのでしょうか?当時のオランダはナチス・ドイツに占領されていました。

1940年5月10日から5月17日までの戦闘の後、ドイツ軍はオランダ軍に降伏を強いました。ロッテルダムへの爆撃が決定的な要因となりました。オランダ政府はイギリスに亡命し、亡命政府を樹立しました。ドイツ占領下のオランダでは、ユダヤ人やレジスタンスなどの迫害が行われました。オランダは1945年に解放されました。

キュラソービザを発行できた理由は、ズワルテンダイクがオランダの領事としてリトアニアに駐在していたからです。彼は1940年6月にナチス・ドイツに占領されたオランダの亡命政府から、リトアニアのオランダ名誉領事に任命されました。

このページから、ズワルテンダイクが領事に任命された経緯やキュランソービザが発給できた経緯などを詳細にまとめると以下のようになります。

ズワルテンダイクは、1940年5月29日にオランダの大使館から電話を受けて、リトアニアカウナスにあるオランダ領事館の総領事に任命された。当時の前任の領事はナチスに同情する妻を持ち、解任される寸前だった。

ズワルテンダイクは、オランダの電気機器メーカーであるフィリップスの現地支社の責任者でもあり、領事館を自分のオフィスに置くことに同意した。フィリップスはユダヤ系の創業者や幹部を持ち、ナチス共産主義に反対する姿勢を示していた。

ズワルテンダイクは、1940年6月15日にソ連軍がカウナスに侵入した後も、領事館を開けていた。彼は、ソ連当局によって逮捕されたオランダ人司祭の身を案じたり、オランダ領東インドへの移住を希望するユダヤ人女性に対応したりした。

キュランソービザの発給は、その女性であるペッシー・レビンが提案したものだった。彼女は、オランダ領西インドの島であるキュラソーは入国ビザが不要であることを知り、そこを経由してアメリカやオーストラリアに移住することができないかと尋ねた。しかし、キュラソーは上陸許可が必要であり、その許可は島の石油精製所を守るためにほとんど出されなかった。

レビンは、キュラソーへの上陸許可が不要であることだけを書いてもらえないかと再度依頼した。この時、オランダ大使館のデ・デッカー大使は彼女のパスポートに「キュラソーへの入国ビザは不要」という文言を書き加えた。これがキュランソービザの始まりだった。このビザは、駐バルト三国オランダ大使であったデ・デッケル(De Decker)がパスポートに書いた「スリナムキュラソー島、他アメリカ大陸オランダ領への外国人の入国には入国ビザ不要」という未完成の文章でした。この文章は本来「西インド諸島入国には現地植民地政府の許可が必要」という後半部分を含んでいましたが、それが外されていました。

レビンは再びズワルテンダイクのもとを訪れて、家族全員分のキュランソービザを発給してもらった。ズワルテンダイクは快く応じた。その後、彼は他の多くのユダヤ人難民にも同様のビザを発給し続けた。彼らはそのビザと日本領事の杉原千畝から発給された通過ビザ「命のビザ」を持って、シベリア鉄道や船で日本や上海に逃れることができた。

キュラソービザを発給されたユダヤ人の生存率に関する正確な統計は見つかりませんでしたが、一般的には、キュラソービザと命のビザを持って日本に逃れたユダヤ人のほとんどが、戦争を生き延びたと言われています。しかし、日本からさらに他国に移動したユダヤ人の中には、日本の敗戦後にソ連に引き渡されたり、ナチスの占領下にあった国に送還されたりして、命を落とした者もいました。

人道的行為を讃える勲章「Medal for Acts of Humanity」を授与

2023年9月14日、オランダのマルク・ルッテ首相は、キュラソービザを発行したヤン・ズワルテンダイク氏(1896~1976)に、人道的行為を讃える勲章「Medal for Acts of Humanity」を授与しました。この勲章は、戦闘以外の勇敢な行為に対して授与されるオランダで最も古く、最も重要な勲章とされています。ズワルテンダイク氏は、1940年にリトアニアでオランダの名誉領事として、約2,000枚のキュラソービザをユダヤ人難民に発給し、日本の外交官杉原千畝氏と協力して、数千人のユダヤ人の命を救いました。

ルッテ首相は、ズワルテンダイク氏の子供たちにメダルを手渡す際に、「父親がしたことは素晴らしいことです。彼は自分の命を危険にさらしながら、多くの人々を救いました。彼はオランダの英雄であり、私たちは彼に感謝しています」と述べました。また、「彼は自分の判断で行動し、正しいことをしました。彼は人間としての良心に従いました。彼は私たちに勇気と希望を与えてくれます」とも語りました。

Medal for Acts of Humanityの画像

ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の関係についての年表

  • 1939年9月:第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツポーランドに侵攻する。
  • 1940年5月:ナチス・ドイツがオランダに侵攻し、オランダ政府は亡命する。
  • 1940年6月:ナチス・ドイツソ連に侵攻し、ソ連リトアニアを占領する。ユダヤ人難民がカウナスに集まり、脱出を求める。
  • 1940年7月:オランダの電気通信会社フィリップスのリトアニア工場長であったズワルテンダイクに対してオランダ在ラトビア大使であったデデッケルは在カウナス名誉領事を命じる。ズワルテンダイクは南米のオランダ領キュラソー島への見せかけの「目的地ビザ」を発給し始める。杉原千畝が日本への通過ビザ(「命のビザ」)を発給し始める。
  • 1940年8月:在カウナス領事閉鎖。彼らは約2000枚の「キュラソービザ」と「命のビザ」を発給したと推定される 。ズワルテンダイクと杉原千畝リトアニアを去る 。
  • 1942年2月:日本軍がオランダ領東インド(現在のインドネシア)に侵攻する。日本とオランダは開戦する。
  • 1945年8月:第二次世界大戦終結する。
  • 1963年:ズワルテンダイクの功績がロサンゼルスの新聞で報じられる。
  • 1976年:ズワルテンダイクが亡くなる。彼は自分がしたことを秘密にしていたため、どれほど多くの人々を救ったかを知らなかった。
  • 1997年:ズワルテンダイクがイスラエルから「諸国民の中の正義の人」という称号を授与される。
  • 2023年2月:ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の知られざる原点という展覧会がオランダ大使館で開催される。その後、読売新聞よみうりギャラリーや杉原千畝記念館などで巡回展示される 。当時12歳だったポーランド出身でオーストラリア在住のマルセル・ウェイランドさん(95歳)が約80年ぶりに来日し、展覧会に参加する。

以上が、ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の関係についての年表です。

参考文献

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